2021/03/24
「じりつ」
日本語というのは難しいです。
同じ発音でも字で全く違う意味をもちます。
今回のテーマの「じりつ」もそうです。
同じ「じりつ」ですが、意味が違います。
自立とは「自分の力で立つ」という意味で、自律は「自分を律する」という意味をもちます。
まず、このテーマの話をするにあたって、これからの話は私の理解であって誰かの考えを否定するものではないことを断っておきます。
子育てでの後悔
私は子どもが三人いて一番上と一番下で14歳離れています。
上の子どもの頃、私たちの子育てのテーマは自立でしたので、「一人でやっていける強い子」像を目指してそれはそれは厳しくしました。
「反省しろ」という言葉を浴びせ、叱りつけ、思うように成長しない、と苛立ちをぶつけていたような気がします。
真ん中の子のときも自立がテーマの子育てをしましたが、このときの失敗が一番苦い。
「親が関わらないほうが自立が促進する」という意味の分からない理論を言うスポーツクラブに騙され、感受性が育つ大切な時期を練習と体罰の日々に奪われた挙句、小学生にして燃え尽き症候群を患わせる結果となりました。
しかし「ああすれば良かった」と後悔していたら上の子にも真ん中の子にも申し訳が立ちません。
だからこそ「これからこの子たちとどう向き合うか」と考えをめぐらせました。
それからしばらくして、私は二人の子どもを何かの型にはめ込もうとしていたのかもしれない、ということに気付きます。
「当たり前に学校に行く」「当たり前に習い事をする」「できれば順位は中の上以上」「そして他の大人からすごいね、と言われる自立した姿」というラベルを貼った箱の中に子どもたちの個性を無視してハメこもうとしていました。
箱よりも大きな球の形をしていた子どもたちの個性は、箱に必要ない部分をそぎ落とされ無理やり詰め込まれます。
私は真ん中の子を燃え尽き症候群にして初めて、この「必要ないとそぎ落としてきた部分」にこそ子どもたちの大切にすべき個性があったことに気付きました。
最悪の後悔の日々を経て、私がとった行動は子どもたちを「ラベルが貼られた箱」から出してやることでした。
多様性を認め合える世の中
我が子の自立を目指していたとき、私が我が子たちになってほしかった姿は何だったのでしょうか?
今の私にはぼんやりとしか思い出せませんが、何となく「自分の力でなんでもできる大人」の姿だったような気がします。
でもよくよく考えて、現代社会でそんなサバイバルな能力が本当に必要なのでしょうか?
結局のところ、人は一人では生きていけません。
例え、一人暮らしの部屋に一人でいても、どこかで何かのツールを通じて人とつながっていて、生きていくためには必ず人とつながっていなくてはなりません。
そして、「これまでの社会」は人とつながるために皆が一律同じラベルを貼って順応しなけば、生きづらい社会でした。
しかし世界は、一律同じラベルを貼らなくても、人の多様性を認めながら生きやすい世の中を創造できるということに気付き始めています。
だから、改めて我が子たちには、共感できる者同士で繋がるコミュニティで生きる力や、その他を認め合い生きていける力を備えてほしいと考えるようになりました。
自律
「これまでの社会」は、同じラベルが貼られていることが「当たり前」で「当たり前ではないもの」を排除する簡単な判断基準だけがある差別の時代でした。
しかし、SDGsという言葉が生まれ、変わっていこうとしている新しい時代は、差別をなくすために「当たり前」という判断基準を少なくしていこうという時代です。
自分の個性を認めてもらい他の誰かの個性を認めるためには、「自分の頭で自分にとって何が良くて何が必要なのか考えること」と「他の個性を否定しない意識を保つこと」が重要です。
この「当たり前」という簡単な判断基準に頼らないことが新たな時代に必要な「自律」ということになると私は考えました。
自分を律するための自分だけのルールが自分勝手なものになってはなりません。
しっかりとした倫理観をもち、他を簡単に否定してしまうような排他的な考えをもたないようにしなければなりません。
このような考え方をしていく中で、まず我が子たちに対して「それは違う」「そうじゃない」と否定する言葉を控えることから始め、そのかわりに、子どもが好きなことの話を聞き、親と子の信頼関係をしっかりつくっていくようにしていきました。
こうやって信頼関係ができてくると、「自律」に必要な倫理観や「自分の頭で考えること」などの考えを共有したり、話し合ったりできるようになりました。
我が家の真ん中の子にも色々ありましたが、草木がたとえコンクリートの下に生えていても、陽の光を求め障害物をよけて伸びていくように、自分に光を当ててくれる場所を目指して動き出しはじめました。
このような出来事を経て、「当たり前」に該当しなくても我が子たちの個性が「新しい時代」で力を発揮するときが来ることを信じることができるようになり、私の心にも余裕が生まれたように思います。
そして、余裕ができたからこそ、社会を俯瞰して見ることができるようになりました。
世の中にはまだ、「高学歴を目指す」「プロスポーツ選手を目指す」こんな感じのラベルが貼られた箱に押し込まれている子どもたちが沢山います。
はじめにも述べましたが、否定するつもりはありません。
ですが、今一度、本当にそれは子どもたちが望んでいることなのか、子どもたちが窮屈に押し込まれたり、そぎ落とされてしまった良い個性がないのか、よく見てほしいと思います。
このように思う中で、私が子育てでした苦い経験の中で知り得たことをリソース(資源)として、必要としてくれる人へ提供していければと考えるようになりました。
ウィズ・ユー琴浦を始めたのはそのリソースの提供の一つです。
子どもを育てることは未来を育てることと同じ。
だからこそ、すべての人にとってやさしい未来を実現するためにできることをこれからも続けていかなければと考えています。